寛元事記・光茂公譜考補地取と綱茂公御年譜を記した史料を納めています。その一部を紹介します。
寛元事記・光茂公譜考補地取
鍋島光茂は1632年(寛永9)5月23日、江戸屋敷に誕生しました。幼名は翁介。父鍋島忠直、母松平下総守忠明の娘お利です。忠直は早出したので、1657年(明暦3)勝茂が没した後に、忠直の子、勝茂には孫にあたる光茂が家督を相続しました。勝茂には元茂(小城)・直澄(蓮池)・直朝(鹿島)の息子がありましたが、元茂は光茂を立てるべく、画策したとされています。これに加担した女性がいました。光茂は幼年期病弱で、何か始めると一図に部る性癖があったらしく、小倉という養育係の女性が、食事にいたるまで厳しく管理して育てたといわれ、聞書(葉隠)は小倉を賢女と述べています。
1658年(万治1)光茂は、藩政に当たるに、御代始御書出、長崎御番人へ手頭等を発して決意を表明しました。また、その後幕府に先立って追腹法度・追かけ馬禁止を実施しました。さらに、佐賀本藩と小城・蓮池・鹿島、3支藩の関係を明確に定め、三家格式を発するなど、文治的藩主とされています。
1692年(元禄5)肥前と筑前の間で、脊振山頂の境界論が起り、双方が幕府に提訴したため、命運をかけた訴訟となりました。結果は肥前の利運で終了しましたが、翌年隠居して綱茂へ家督を渡しました。
光茂は歌道に貪着したところがあり、勝茂から強く意見され、集めた歌集を焼かれました。政道のひまをみて歌学をすることは、亡き勝茂も許してくれるだろうと、再び思い立ち、泰平の世に名を残すには、歌道の他にないと、古今伝授を希求しました。
末期までに西三条の正流を伝授終り、無双の秘書まで渡されました。時に1700年(元禄13)のこととされています。同年5月16日没、享年69才でした。法名 乗輪院殿全機良運大居士。
綱茂公御年譜
鍋島綱茂は1652年(承応1)5月5日、江戸桜田屋敷に誕生しました。父丹後守光茂、母上杉弾正定勝の娘お虎。幼名彦法師、号に致徳斎・休復・松柏堂・活水・静観堂・適和があります。
1698年(元禄11)西御屋敷観頤荘を取立て、その主旨を観頤荘記に記しました。元禄文化は当地佐賀へも波及して来ました。
施政面では翌年、武雄、多久、諌早、須古を親類同格にしました。
ところで、綱茂の文化人としての一面を強調するため、随所に詠歌・詩歌・画并讃を引用しているのは、直茂・勝茂・光茂の年譜と著しい相違をあらわしています。
1672(寛文12) 緑樹院追善御詠歌1軸
1673(延宝1) 自性院追善御詠歌
1674(同2) 林大学頭と詩歌唱和
1675(同3) 圓明院追善詩歌
1682(天和2) 蛎久天満宮連歌奉納
1684(貞享1) 鍋島官左衛門宅にて詩作
1686(同3) 諌早豊前宅にて詠歌、鍋島十左衛門宅にて詩歌
1692(元禄5) 原田吉右衛門宅にて詩作
1696(同9) 諌早豊前宅にて詩作
1697(同10) 脊振山弁財天上宮額、鍋島弥平左衛門へ画3幅、鍋島正兵衛宅にて詩作、武帝達磨対面の画
1698(同11) 鍋島正兵衛へ詩文、林大学頭跋文あり
1700(同13) 鳩森社上梁文、乗輪院追善歌并前書
1701(同14) 御筆古歌色紙
1705(宝永2) 御花見詩歌、圓珠寺隠居画像并讃
1706(同3) 乗輪院7回忌50首和歌手鑑。
12月2日死去、享年55才。法名 玄梁院殿卓巌道印大居士という。
光茂・綱茂の施政について、聞書(葉隠)は、皆御代始めにて何事かなと、新儀工みの仕そこないにて候。と批評を受ける点も多くありました。
本文頁数:726ページ(他に図版5ページ)
頒価 :11,000円
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