中部地区

No1

スキー国体
 
1952(昭和27)年3月

1952(昭和27)年3月5日第7回国民体育大会スキー大会が天狗山で開催された。写真左上の天狗山スキーリフトは国体開会に先立ち3月1日開業している。
 
No2

昭和37年8月の水害
 
1962(昭和37)年8月

台風9号による雨量は小樽測候所観測開始以来の記録となる267㎜に達し、市内の河川は氾濫、多くの家屋や橋が流失した。死者・行方不明者6人を出し、小樽市としてはじめて災害対策本部が置かれている。災害救助法の適用を受け、激甚災害にも指定もされた。
写真は、消防署第三出張所から俯瞰した、オコバチ川氾濫による緑第一大通りの洗心橋崩落のようす。路線バスが迂回している。
 
No3

手宮方面遠望-1
 
明治20年代後半~30年代

石山から手宮方面を望んだ4枚組の写真。これは西方の現・豊川町あたり。まだ人家は少なく、中央には造成中の丘も見える。
 
No4

手宮方面遠望-2
 
明治20年代後半~30年代

石山から手宮方面を望んだ4枚組の写真。この写真は手宮の中心部を望む。右端には現在重要文化財に指定されている機関車庫三号があり、その左には木造の機関車庫二号がある。さらに左の妻側を見せている2階建ての洋館は元の北有社だった北海道炭礦鉄道本社(1890=明治23年11月札幌へ移転)。その左には北海道開拓の村に「駅長官舎」として移築保存されている官舎がある。画面中央に走る道路は今のバス通り。道路沿い中央の空き地右側の建物は1903(明治36)年4月17日の火災で類焼する前の日本郵船小樽支店。
 
No5

手宮方面遠望-3
 
明治20年代後半~30年代

石山から手宮方面を望んだ4枚組の写真。海岸から突きだしているのは手宮桟橋。左端の白い石造倉庫は広海倉庫だが、奥行きが現在よりも小さい。その下の大きな白く見える屋根の石造倉庫は、1891(明治24)年7月建築中の記事がある日本郵船のもの。中央下に少し線路が見えるのは、のちの手宮線。道路片側に敷かれていたので事故が絶えず、1903(明治36)年4月17日の火災をきっかけに線路移設が行われ、翌年7月1日竣工式が挙行された。
 
No6

手宮方面遠望-4
 
明治20年代後半~30年代

石山から手宮方面を望んだ4枚組の写真。中央の2棟の石造倉庫は後に連続する上屋を設け、1棟となる。のちの渋沢倉庫に買収、改称し現存する。その前身の遠藤倉庫は1896(明治29)年4月新築中という新聞記事があるが、妻面上部にある印は遠藤(遠藤の印は曲万)のものではなく、疑問も残る。その手前の道路沿いには「旅人宿」の看板をあけた旅館が見える。
 
No7

第一防波堤工事の埋立
 
1897(明治30)年ころ

「天然の良港」といわれた小樽港でも、冬季の激浪は荷役を困難となり、北海道開拓の拠点である札幌に近い港の機能停止は大問題であった。小樽港防波堤の建設は大きな課題となっていたが、財政上・技術上の問題から着工は遅れていた。1895(明治28)年5月まず試験工事として防波堤の一部が着工、この成功により技術的なめどがついたので、1897(明治30)年5月本格的に工事が開始された。
写真は第一防波堤基部の厩町(現・手宮)の築港事務所附近の埋立工事のようす。
 
No8

手宮駅構内遠望-1
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

手宮駅構内から南浜町方面までを遠望した2枚組の写真。撮影場所は手宮公園の丘上。中央のカーブした大屋根は貯炭場。影になっている手前の2本の木の間には現在重要文化財に指定されている日本郵船小樽支店が見える。
 
No9

手宮駅構内遠望-2
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

手宮駅構内から南浜町方面までを遠望した2枚組の写真。撮影場所は手宮公園の丘上。中央に手宮桟橋が見える。その手前には、手宮高架桟橋工事の仮設線と思われる線路が左右に走っている。右下には高架桟橋への取付線に使う鉄桁(ガーダー)が置かれている。
 
No10

北浜町
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

北浜町の海岸風景。右端は手宮駅構内の貯炭場。沿岸に妻側を見せて建つ倉庫群は小樽港を特徴づける光景のひとつだった。ここには北前船や汽船の姿はなく、こうした船は接岸できないこともわかる。
 
No11

手宮駅構内と高島道路
 
昭和戦後

手宮公園の丘の中腹あたりから眺めた手宮駅構内。バスが走っているのは、高島へ抜ける道路。右端には石炭積み出し用の陸上桟橋が見え、左端の丘の下方には、手宮高架桟橋の取付線の跡がある。高架桟橋は老朽化と石炭荷役の主力が小樽築港へ移ったため、戦時中使用停止された。
 
No12

スキー授業
岩瀬栄一
1949(昭和24)年2月13日

小学校のスキー授業のようす。場所は手宮公園のある丘。「開道五十年記念写真展」出品作品。
※参考文献「小樽なつかし写真帖 総集編第2巻」
総合博物館所蔵の同一写真に裏書きあり。
 
No13

函館船渠小樽工場
 
1949(昭和24)年

手宮にあった函館船渠(函館ドック)小樽工場は1950(昭和25)年8月閉鎖されている。画面右端には手宮高架桟橋の残骸が見える。高架桟橋は使用停止後、上部を撤去されたが、海面に近い下部は雪捨てに利用されていた。1950(昭和25)年から残り部分の撤去が始まったが、1961(昭和36)年でもなお一部が残存していた。撤去工事は当初海面下の基礎部分(木柱)まで及ばなかったため、船が衝突する事故も起きている。
 
No14

昭和37年8月の水害
 
1962(昭和37)年8月

台風9号による雨量は小樽測候所観測開始以来の記録となる267㎜に達し、市内の河川は氾濫、多くの家屋や橋が流失した。死者・行方不明者6人を出し、小樽市としてはじめて災害対策本部が置かれている。災害救助法の適用を受け、激甚災害にも指定もされた。
写真は手宮駅前の道路冠水のようす。上部には手宮小学校(現・手宮中央小学校)の木造校舎が見える。
 
No15

昭和37年8月の水害
 
1962(昭和37)年8月

台風9号による雨量は小樽測候所観測開始以来の記録となる267㎜に達し、市内の河川は氾濫、多くの家屋や橋が流失した。死者・行方不明者6人を出し、小樽市としてはじめて災害対策本部が置かれている。災害救助法の適用を受け、激甚災害にも指定もされた。
写真は梅ヶ枝町と末広町の境となっている本田沢通りのようす。この通りは1907(明治40)年手宮遊廓ができるまでは赤岩・祝津方面への主要道路であった。
 
No16

入船陸橋
 
1882(明治15)年~1885(明治17)年

幌内鉄道の入船陸橋は1880(明治13)年11月開業以来、アメリカ式の木橋であった。しかし、湿度の高い日本では腐朽が早く、1885(明治17)年4月レンガの橋台・橋脚を備えた鉄橋への架け替え工事が始まり、翌年6月竣工している。中央に見える洋風の建物が住吉駅(現・南小樽駅)。その奥(札幌方)のトンネルは、現・量徳橋のところ。あたりの家は柾葺きの石置き屋根に見える。
 
No17

小樽公園・緑町遠望
 

小樽公園・緑町方面を北側から遠望した写真。丘の左下には1901(明治34)年1月5日移庁式をした小樽区役所がある。左下から右上へ走るのは1900(明治33)年12月から移転が始まった新廓への道路で、今の緑第一大通り。中央右にある倉庫附属の建物は早川商店主、早川両三邸。左端下は浅草寺。緑町が設置されたのは、1915(大正4)年10月15日の町名地番改正時であり、この写真の時代はまだ人家も少なかったことがわかる。撮影時期は、明治30年代?

 
No18

常備艦隊
 
1903(明治36)年8月

ロシアの脅威に備えるため常備艦隊はしばしば小樽へ寄港している。写真は1903(明治36)年8月5日入港、11日まで小樽に碇泊したときのもの。寄港した艦隊は一等戦闘艦が敷島ほか4隻、一等巡洋艦が出雲ほか4隻、駆逐艦が暁ほか8隻の計16隻。小樽だけでなく札幌などからも軍艦見物に来る人が多く、新聞には10日などは2万人を超えたであろうと報じられている。
※参考文献「世界の艦船」652号(2006年1月号)
 
No19

中央小樽駅
国有紀念写真帖
1907(明治40)年ころ

北海道鉄道中央小樽駅職員の記念撮影。初代駅舎は車寄せ上部の半円形の採光窓が特徴であった。人物の後ろには「自動電話」といわれた公衆電話ボックスがある。

 
No20

中央小樽駅
国有紀念写真帖
1907(明治40)年ころ

函館と小樽を結ぶため計画された函樽鉄道は、1900(明治33)年11月22日北海道鉄道と改称、翌年2月21日会社設立登記がなされている。小樽側では1902(明治35)年12月10日然別~蘭島間が開業した。中央小樽駅は1903(明治36)年6月28日蘭島~小樽中央間開業時に塩谷駅とともに設置されている。「中央」がつくのは、すでに北海道炭礦鉄道小樽駅(現・南小樽駅)があったから。小樽中央駅は翌年10月15日所在地の高島郡から高島駅と改称されたが、「小樽」のつかない駅名は利用者に混乱を招き、1905(明治38)年12月15日中央小樽と改称された。なお、高島駅または小樽中央駅が開業後3日後に「稲穂駅」と改称されたとする記述が現在も見られるが、そういう事実はない。これは当時の北海道鉄道自身による新聞広告や公文書などから明らかである。
写真は北海道鉄道時代の中央小樽駅構内を函館側からを望んでいる。左端は開業時の初代駅舎。
 
No21

(表紙)
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

この写真帖は1909(明治42)年8月伊藤博文が韓太子(大韓帝国皇太子)と来樽、藤山要吉邸に泊まったとき献納したものの副本と思われる。当時の新聞記事によると、献納品のなかに特別に調製した写真帖があり、外装・寸法・内容がこの写真帖と合致している。
撮影時期は、同年5月17日起工、11月1日新築移転する小樽警察署が工事準備中(市街遠望写真-1参照)であることや、ほかの建物からも1909(明治42)年春の撮影で矛盾がない。撮影者の写真師竹村伊蔵は、1902(明治35)年6月堺町で開業、3年後の8月色内町に新築移転している。
 
No22

区役所・商業会議所遠望
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

小樽公園から望んだ小樽区役所と小樽商業会議所。中央の白く見える屋根は区役所で、1901(明治34)年1月5日落成移庁式を挙行、左方の商業会議所は、1907(明治40)年6月新築移転、10月9日落成式をしている。遠景の小樽港には多くの汽船が碇泊している。
 
No23

市街遠望-1
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

富岡町の丘上から望んだ4枚組の市街遠望写真。左端は北海道庁立小樽高等女学校、その左下は小樽区役所と小樽商業会議所。中央のコの字型の建物は稲穂女子小学校、その左が稲穂男子小学校。稲穂女子小学校の右上隣は伊藤博文と韓太子が泊まった藤山邸。中央左端の橋は第一火防線(浅草通り)の浅草橋(現・富岡跨線橋)、その右下の空き地では1909(明治42)年5月起工された小樽警察署の新築工事が始まっている。
 
No24

市街遠望-2
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

富岡町の丘上から望んだ4枚組の市街遠望写真。中央右端は浅草橋(現・富岡跨線橋)。画面中央には中央小樽駅の構内が拡がる。港に面した丘は水天宮山で、頂上には1920(大正9)年9月遷座式をする前の旧社殿がポツンと建っている。その中腹にあるのは堺小学校。手前の富岡町はまだ造成中。この写真の小樽港内には帆船も見受けられる。海岸沿いには稲積倉庫などの大屋根も見える。
 
No25

市街遠望-3
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

富岡町の丘上から望んだ4枚組の市街遠望写真。中央右端は中央小樽駅舎。そこからまっすぐ港へ向け第二火防線・桟橋通り・停車場通りともいわれた現・中央通りが走る。画面中央の大きな建物は大黒座。この大黒座は1913(大正2)年4月19日類焼、直ちに再建されたが、1915(大正4)年2月10日今度は自ら出火、焼失した。稲穂町に劇場がなくなってしまったため、1917(大正6)年花園町の花園座(元・北海座)を移築、12月中央座として舞台開きを行っている。大黒座の左隣の空き地は、1905(明治38)年1月入船町へ移転した小樽電燈舎火力発電所の跡地。
 
No26

市街遠望-4
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

富岡町の丘上から望んだ4枚組の市街遠望写真。石山・手宮町方面を望んでいる。中央に横たわる石山もまだ大きい。その左を切り通しで抜けるの急坂は浄応寺の坂。その左上には1907(明治40)年3月貸座敷免許地に指定された手宮遊廓(北廓)が見える。画面上部の丘の中腹では手宮高架桟橋への取付線の工事も始まっている。
 
No27

住吉神社
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

住吉神社の前身厳島神社は元禄元年の創建と伝えられ、1882(明治17)年現在地へ移転した。写真の石の大鳥居は、1899(明治32)年北前船主だった大家七平・広海二三郎が寄進したもの。まわりのようすも現在とは違いあっさりしている。右の大屋根は浄暁寺。
 
No28

南浜町の港
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

桟橋のあった南浜町から中央通りを駅方向に望んだ写真。遠くに踏切も見える。左端は桟橋ビヤホール・移民休憩所の建物。印半纏を着た港湾労働者が大勢見える。
 
No29

船入場
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

南浜町を北側から望んだ写真。正面は桟橋ビヤホール・移民休憩所。右の大屋根は小樽倉庫(現・運河プラザ・小樽市総合博物館運河館)。左端には旅客用桟橋が見える。船客はここから艀に乗り、港内に碇泊している船へと向かった。
 
No30

小樽公園
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

小樽公園内の風景。このころにはかなり整備され、花見の名所ともなっていた。
 
No31

小樽公園
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

小樽公園内の風景。このころにはかなり整備され、花見の名所ともなっていた。
 
No32

小樽区役所
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

小樽区役所は1901(明治34)年1月5日落成移庁式を挙行、その後正面両翼に増築されたが、1933(昭和8)年9月に新館となるまで使われている。
 
No33

小樽商業会議所
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

港町にあった小樽商業会議所は1905(明治38)年の大晦日の火事で類焼、1907(明治40)年6月小樽公園内に新築移転、10月9日落成式を挙行した。この建物も1919(大正8)年2月15日焼失している。
 
No34

色内通り(小樽郵便局前)
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

小樽郵便局のある色内十字街から見た色内通り。左は小樽郵便局。道路右側の台形屋根が二つ見えるのは三井銀行小樽支店。その手前は早川商店。道路は舗装こそされていないが、すでに歩道が設けられている。
 
No35

色内通り(今井呉服店前)
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

色内通りの手宮方向を望んだ写真。右端は今井呉服店(丸井今井)小樽支店。左側の瓦屋根の建物は丸井洋物店で、1909(明治42)年12月二十銀行小樽支店となる。
 
No36

色内通り(北海道拓殖銀行前)
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

色内通りの堺町方向を望んだ写真。左端は北海道拓殖銀行小樽支店。その1軒おいた隣は曲キ印河野呉服店。その2軒おいた背の高い建物は篠田洋物店。道路(中央通り)を隔てた向こうには小樽銅鉄船具のアーチ状になった1階部分が見えている。右の瓦屋根の少し引っ込んだ建物は日本商業銀行小樽支店。その奥、曲ヨ印の看板は亀尾呉服店、その左に見える山カ印の看板は山カ靴店。正面は水天宮山。
 
No37

第二防波堤工事
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

1908(明治41)年6月の第一防波堤(北防波堤)竣工後、直ちに第二防波堤(南防波堤)が着工された。厩町(現・手宮)から若竹町へ移転した小樽築港事務所は、材料置場や工場敷地とするための埋立から開始、1910(明治43)年11月21日には小樽築港駅も開業している。
 
No38

第二防波堤工事
竹村伊蔵
1909(明治42)年春~夏

第二防波堤基部から防波堤上へコンクリートブロックを運ぶ蒸気機関車。防波堤先端の海上にはクレーン船も待機している。当時はこれらの大型機械の動力はほとんど蒸気機関であった。
 
No39

東宮御旅館
 
1911(明治44)年8月

1911(明治44)年8月東宮(皇太子)行啓に際し、小樽には皇太子が宿泊する適当な場所がなかった。このため新たに建設することとなったが、2万5,000円以上と見込まれた費用が問題であった。ここに助け船を出したのが、実業家として知られた藤山要吉で、藤山は建物建築費用をすべて支出、区は敷地造成・附属工事だけですむこととなった。大広間は御旅館として使用後公会堂として転用するべく設計されているが、あくまでも最初の名は「御旅館」。
写真は東宮離樽後、8月25日愛国婦人会員へ公開した際の記念撮影であろう。藤山から小樽区への正式な寄附は9月になってからであり、皇太子宿泊時はまだ藤山所有であった。
 
No40

東宮御旅館
 
1911(明治44)年8月

8月25日午前東宮は無事離樽、午後には愛国婦人会に見学を許可、翌日から28日まで一般開放、29日小学校児童にも見学させている。写真は愛国婦人会の幹部だろうか。
 
No41

埋立開始のころの北浜海岸
 
大正初期

小樽運河は小樽区営埋立によりつくられた。沿岸にはすでに倉庫が建ち並んでいたから、埋立地の造成により、造成地を売却・賃貸することで埋立費用も償却できる利点もあった。埋立計画は埠頭式か運河式かをめぐり激論となり、設計変更を繰り返した末、1914(大正3)年3月ようやく運河式と決定、8月着工された。写真ではまた埋立地が姿を現していないから、着工直後であろう。
 
No42

浅草橋
 
大正後期

埋立地と元の海岸を結ぶため橋が必要となり、北から北浜橋、龍宮橋・中央橋・浅草橋が運河出現とともに架けられた。浅草橋は最初は浅草通り(第一火防線)が函館本線をまたぐ橋の名前であったが、おそらくこの時点で名前を転用したと思われる。中央橋・月見橋同様、木造トラス構造の橋である。この新たな浅草橋は1922(大正11)年8月18日開橋式が挙行されている。
No43

満洲出兵
 
1932(昭和7)年9月27日

前年起こった柳条湖事件(満洲事変)のため中国へ出征する兵士と見送る人たち。撮影場所は1932(昭和7)年7月竣工したばかりの堺町岸壁。この岸壁により大型船が直接接岸、荷役できるようになった。※参考文献「世界の艦船」659号(2006年6月号)
 
No44

小樽港祭
 
1935(昭和10)年8月

1935(昭和10)年8月18日小樽港埠頭築設起工式にあわせ初の小樽港祭が開催された。写真は色内十字街から第一火防線(浅草通り)を行くパレードの光景。撮影場所は三菱銀行小樽支店(現・北海道中央バス運河ターミナル)。画面右の大きな建物は小樽郵便局、左端は第一銀行小樽支店(現・トップジェントファッションコア)。
 
No45

お召し艦比叡を見送る人たち
 
1936(昭和11)年10月9日

1936(昭和11)年昭和天皇は北海道各地を巡幸後、10月2日から陸軍大演習を統監、9日には小樽港から函館へ出航した。写真は水天宮山でお召し艦「比叡」を見送る人たち。
※参考文献「世界の艦船」695号(2008年9月号)
 
No46

北海道大博覧会公園会場遠望
 
1937(昭和12)年7・8月ころ

小樽市主催、北海道庁・小樽商工会議所後援の北海道大博覧会は、小樽公園会場と海岸会場で1937(昭和12)年7月7日から開催された。公園会場には「産業本館」「北海道館」「小樽館」などの陳列館、「迎賓館」「演芸館」などの附属館、「満洲館」「台湾館」「大サーカス」などの特設館、海岸会場には、「国防館」「交通観光館」などの陳列館、「野外劇場」などの附属館、「海女館」などの特設館があった。ほかにも食堂や売店、記念塔もあり、8月25日まで50日間の会期中100万人以上が入場している。入場料は両会場共通で、午前8時から午後5時までの昼間が40銭、午後6時から10時までの夜間が20銭(いずれも小人は半額)だった。写真は公園会場の遠望。
 
No47

妙見堂

寿司屋通りから少し山田町へ入ったところにある妙見堂は、妙見川(=オコバチ川)、妙見通り(=寿司屋通り)、妙見町の名の由来となっている。妙見町は妙見通りに沿った一帯を表す通称で、料理店が多かった。
 
No48

花園銀座商店街
 
昭和20年代

花園第一大通り(花銀)と公園通りとの交叉点から手宮方向を望んだ写真。右端は移転前の花園交番。1931(昭和6)年に建てられたこの交番は1955(昭和30)年10月改築されている。左端は今も盛業中の角磯ハブタイ店の旧店舗。
 
No49

色内川沿いの朝市
 

手宮地区と稲穂地区の境にある色内川附近には、1925(大正14)年12月色内川筋公設市場が開業している。長橋・塩谷方面からの交通の便もよく、戦後も青果物の立売が行われていた。現在では道道小樽臨港線や国道5号が走る色内川は、たびたび氾濫していたが、1958(昭和33)年9月の暗渠化が完成した。写真ではまだ暗渠化工事がなされていないので、昭和20~30年代前半であろう。
 
No50

中央通り
 
1958(昭和33)年7・8月

中央通りの夏の光景。写真中央の3階建ての旅館は植木屋旅館。中央通りは桟橋と駅とを結んでいたので、旅館のほか、みやげなど旅行客向けの商品を扱う商店が多かった。道路をまたぐアーチにある北海道博覧会は、1958(昭和33)年7月5日開幕、小樽には「海の小樽会場」として祝津会場と埠頭会場が設けられた。祝津には水族館のほか、北海道炭礦汽船(株)が泊村から移築した田中家番屋(現・鰊御殿)があった。どちらも閉幕後は市に移管されている。7月7日には皇太子(今上天皇)も来樽、博覧会などを見学している。北海道大博覧会の入場者は小樽会場だけで160万人を越えた。
 
No51

昭和37年8月の水害
 
1962(昭和37)年8月

1962(昭和37)年、台風9号による雨量は小樽測候所観測開始以来の記録となる267㎜に達し、市内の河川は氾濫、多くの家屋や橋が流失した。死者・行方不明者6人を出し、小樽市としてはじめて災害対策本部が置かれている。災害救助法の適用を受け、激甚災害にも指定もされた。
写真は、現在高架となっている函館本線の国道5号の踏切附近のようす。妙見川(オコバチ川)が濁流となっている。後方の円形屋根と左側の建物は稲穂小学校。
 
No52

ニューギンザ百貨店前の賑わい
 
1970(昭和45)年ころ

戦後に登場したニューギンザ百貨店はかつての河野呉服店の後身といわれる。昭和30年代には増改築を繰り返し、売場を拡張、丸井今井・大國屋と並ぶ小樽の三大デパートだった。自動車が行き交う道路は妙見通り(寿司屋通り)、中央の道路は現・サンモール一番街。「ニューギン」と親しまれたニューギンザ百貨店は、稲一再開発ビル建設のため、1988(昭和63)年7月閉店している。撮影時期は右側の南口商会の看板から1970(昭和45)年ころと思われる。

 
No53

住吉町方面遠望
 

左方の丘上にある大きな建物は小樽随一の料亭として知られた開陽亭(開業当時は魁陽亭)。1932(昭和7)年1月海陽亭と改称、現在に至る。この写真は1915(大正4)年2月新築移転した共成本社がなく、まわりの家屋の状況などから明治中期から後期の撮影と思われる。