福島の児童文学者 30 北畑静子

 

(1922年3月17日から1990年7月13日)

逓信省の無線技師であった父平五郎の勤務先である原町市に二男三女の長女として生まれる。母は秀子。当時の一般的サラリーマンの家庭であった。原町市には3歳まで住んでいたが、父の転勤で東京大手町に引っ越す。毎年、クリスマスのプレゼントには本をもらい、アンデルセンやグリムの童話、『小公子』など海外の名作児童文学を楽しむ少女時代を過ごした。

普連土学園卒業。1953年、国立国会図書館に勤務。職場で出会った人々の感化を受けながら児童書とロシア語に関わるようになり、勤めながら日ソ学院やプーシキンロシア語大学通信学部でロシア語を学ぶ。ソビエトの児童文学作品を翻訳し、ソビエト文学研究会「イワン」の創設から同人として活躍する一方、日本子どもの本研究会、日本児童文学者協会、日本国際児童図書評議会、児童図書館研究会などの会員としても子どもの本に深く関わる。また、ソビエト・東欧の児童文学の研究者として雑誌『日本児童文学』などに多くの作品を紹介している。

 

子供向けの作品

『ねしょんべんものがたり』(童心社 1971)に「わたしのおねしょのはなし」として、自分の思い出を綴っている。そこには、おねしょをする子どもへの応援メッセージが込められている。

一方、『短編集おもいで箱』(「原爆児童文学集」汐文社 1985)に「ふつうではないおばけごっこ」を書いている。この作品は、同級生、姉弟、従兄弟と留守番をする小学4年のみゆきが、アメリカとソビエトが戦争を始め、原爆が落ち人間が滅びるというふつうじゃないおばけごっこをする。その夜、福島県野原町に住むおじいちゃんが入院したとの知らせが入り、おかあさんが駆けつけるが、10日後亡くなる。実は、おじいちゃんは通信兵として原爆が投下された広島にいて被爆していたのだという。その体験を綴った文章を読んだみゆきが、おじいちゃんが知りたいと願っていた原爆投下の理由を調べたいと思うまで、という短編である。挿入されているおじいちゃんの体験文は『私も証言する-ヒロシマ・ナガサキのこと-』(原爆を考える原町市民の会)を参考にしている。

1974年翻訳刊行の『アイオイ橋の人影』(オフチンニコフ著 冨山房)は原子爆弾の製造から投下にいたる過程と、ヒロシマの傷跡を描いた若い世代への本である。その訳者あとがきで「わたしは、この『アイオイ橋の人影』を日本語に翻訳できて、大変うれしい。でも同時に、これからの自分に、ここからは、どうしても退くことはできないという一線ができたのだということもわかる」と述べ、大変な分野に手を出してしまった重圧と目をそらしてはいけない責任の重さを語っている。その思いが、「ふつうではないおばけごっこ」を書かせたのではないだろうか。

 

二つのエッセイ

幼少の頃から父母の死を迎える頃までの四季折々の思い出を綴った『燈台の絵』(自費出版 1953教育報道社 1982)では、家族の思い出や当時の生活などが描かれている。残念ながら3歳まで住んでいた福島県原の町(現在の原町市)の記憶はなく、父母から聞いた話として語られている。

『夢の共和国』(スタジオ・バク 1987)は1985年夏、スロバキア語の国際研修ゼミナールに参加するためチェコスロバキアの首都プラチスラバに1ヶ月滞在した時の経験を綴ったものである。研修の場や仲間との楽しい交流の中で「国際性というのは、英語が話せるなんてことより、第一次世界大戦以後の世界史を、また自分の国の歴史と文化をきっちり知っていることである」と身をもって知る。

 

翻訳作品

1968年、作家マルシャークの自伝『人生のはじめ』(理論社)を村山士郎と共訳で出版する。その後、『うちのマーシャ』『なぜおとなになるの』『春一番が吹いて』など20点以上のソビエト・ロシアの児童文学や絵本を相次いで翻訳する。

1986年、国立国会図書館を退職する。『国立国会図書館月報』(300号 1986.3)に「三十余年をふりかえって」と題した文章を載せている。そこで「自分に残された時間を、好きな手作りの仕事にゆっくり打ちこみたい思いがいっぱいです」と書いている。その手作りの仕事として、本腰を入れてソビエト・チェコスロバキアの児童文学を紹介しようと張り切っていた矢先、病に倒れる。ゴルバチョフによるペレストロイカが進む中、歴史的なソ連の崩壊を見ずに1990年7月13日、亡くなる。

参考文献

  • 『児童文学人名事典』出版文化研究会 1998 他

〈児童図書研究室:佐藤加与子〉