福島県人で最初の芥川賞作家である中山義秀は、明治33年(1900年)西白河郡大信村に生まれた。本名議秀、生家は川畔で水車屋を営んでいた。安積中学から早稲田大学英文科へ進学。大学在学中に、生涯文学上の師友として仰いだ横光利一らと同人誌『塔』を創刊。また、夏休みの帰省中に沼尻高原中ノ沢温泉で、会津坂下町の商家の娘赤田敏と恋に落ち、後に結婚した。卒業後、三重県立津中学、次いで千葉県の成田中学教師となったが、昭和8年追われて辞職。愛妻敏が病死し、生活も貧困を極めたが文学への情熱は失わなかった。
昭和13年「厚物咲」により芥川賞受賞。翌年には「碑」を発表して文壇上の地位を確固なものとした。岩瀬郡長沼町を舞台とした「碑」は、時代の流れの中で数奇な運命をたどった人々の姿に、作者自身の孤高の精神の悲しみを投影した名作であり、不遇時代の義秀が自らの墓標とする決意で書き上げた執念の作でもあった。県内を舞台とした作品は他に、歴史小説「仇し野」「残照」「信夫の鷹」、現代小説「電光」「七色の花」「魔谷」等がある。また、戦記文学の秀作「テニヤンの末日」、自伝的小説「台上の月」、野間文芸賞を受けた 「咲庵」などがあり、その文学の基底を貫くものは「東北という風土の持つ、あの暗く重い力。山国者の持つ、あのほとんど狷介ともいうべき孤独性。そして濃い血というものの持つ、あの鬱屈した激情」であると八木義徳は評している。
晩年はガンに倒れ、「芭蕉庵桃青」を絶筆として昭和44年(196年)に亡くなった。死の前日に、キリスト教の洗礼を受けている。歿後、新潮社が『中山義秀全集』全9巻を刊行、平成五年には故郷の大信村に中山義秀記念文学館が設立された。福島の風土を色濃く揺曳し、芳醇の香を放つ義秀の文学は、この文学館の開館とともに再び脚光をあび、すぐれた歴史小説を対象とした中山義秀文学賞も創設されている。