福島県立図書館所蔵 貴重郷土資料探照 2 「石井研堂葉書」

 

石井研堂が、書誌学者斎藤昌三(1887年から1961年)にあてて書いた昭和17年1月4日付消印の葉書。同郷の作家、翻訳家の原抱一庵について書いた自分の文を、探しても見当たらないので、写してすぐに返すから貸して欲しい、との内容の葉書である。(表紙写真参照) 石井研堂(本名 石井民司)は、慶応元年(1865年)6月23日に二本松藩郡山村、現在の郡山市に生まれた。少年雑誌『小国民』の編集や、明治の文化を研究した著書『明治事物起原』(明治41年、橋南堂)などで有名である。この『明治事物起原』は名著の誉高く、最近では平成9年にちくま学芸文庫に収められ刊行されている(全8巻)。彼は、昭和18年(1943年)78才で亡くなる死の直前まで本書の増訂作業に力を注いだ。

研堂は若い頃、郷里の母校(現在の郡山市立金透小学校)で教鞭をとっていたこともあり、上京後も小学校の教師をしながら編集の仕事にあたっていた。少年雑誌の編集や、評価を得た少年読み物の刊行には、このときの小学校での経験が生かされていたようである。 また、この葉書の文面にでてくる原抱一庵(1866年から1904年)は、新聞小説「闇中政治家」でその才能が認められ、リットンやマーク・トゥエインの作品や、ユゴーの「レ・ミゼラブル」(日本で初めての翻訳だった)などの翻訳で活躍した明治時代の作家である。彼も研堂とおなじ郡山市の出身だった。39才の若さで明治37年(1904年)に亡くなっているが、死の数年前は誤訳論争に巻き込まれるなどあまり恵まれず、巣鴨の精神病院で、その生涯を孤独のうちに終えている。

研堂は、同じ郡山の生まれで、当時語られることが少なくなっていた抱一庵についての回想を、この葉書が書かれた数年前に雑誌『書物展望』(第6巻第4号、昭和11年4月)に「原抱一庵と私」という題で寄稿している。この中では、抱一庵について「白皙痩躯の美男子で、稚氣饒(ゆたか)に、率直で寧ろ愛すべき點のあつた人たることだけは記憶して居る」「どうかも少し生かして、一廉の文士にし、郷土の花としたかつた」と書いている。

この葉書を投函したのは昭和17年、抱一庵の死後35年あまり後のことである。受け取り人の斎藤昌三は同誌を出版している書物展望社の経営者でもあることから、葉書のなかで見当たらないといっている文はこの『書物展望』に掲載された文章のことなのかも知れない。 なお、葉書の中央に「漂譚楼」という蔵書印が押されているが、これは研堂が28才の時に刊行し、各新聞で絶賛された『日本漂流 第二編』にちなみ政治家副島種臣に揮毫してもらったものである(「漂譚楼(ひょうたんろう)」は研堂の造語)。研堂はそれをもとに印章を彫ってもらい、蔵書や手紙に押して愛用していたということである。たった一枚の葉書だが、当時の文壇の様子が偲ばれる貴重な資料である。

<調査課:高野香里>