福島県内でも豆本が発行されました。
えびや豆本 会津復古会会員でもある会津若松市の鰻の「えびや」の四代目当主・大場良氏が、会津をテーマに、「えびや豆本」を自費出版しました。「えびや豆本は城下町会津のあまり知られていない史跡・名所を選んで紹介するものです。その中には美しい会津が色彩豊かに残っています。」とその中で語っています。昭和53年には8号『会津唐人凧』、10号『幻の檜原金山』が発行されています。
会津豆本 えびや豆本が私刊・非売品で手に入りにくかったため、えびや豆本の制作を手がけた会津若松市の発行所キャップが、えびや豆本を10号毎に合本し、出版しました。昭和54年には第1集、昭和55年には第2集、昭和60年には第3集、平成8年には第4集が発行されています。
[日新館豆本] 会津藩校日新館でも平成8年に『ならぬことはならぬ 日新館童子訓』を発行しています。えびや豆本、会津豆本、日新館豆本とも、会津若松市の横田新氏が制作に携わっています。
ふくしま豆本 昭和58年、福島豆本の会が、福島をテーマに、福島市の日進堂印刷所から発行しました。創刊号は飯坂温泉・鯖湖湯についての『サバコはどこだ』、第2号は『福島酒鑑』、第3号は『高橋由一の信夫橋ノ図』と刊行されています。
岩越豆本
本宮町にお住まいの大沼洸氏は、戦前戦後の混乱期について綴った小説や詩等を、平成4年から12年まで、8年の歳月を費やして24冊の豆本にしました。それらの作品は粋を凝らした装丁と意表をついた仕掛けに特徴があります。サイズは、マッチ箱位の物や指先に乗る位のもの等、芸術的です。二十冊から三十冊の限定出版だったため、コレクターの間では、「幻の豆本」と言われているものです。
「岩越豆本」の名前の由来
明治時代、郡山・新津間を走る鉄道を、岩代国(いわしろのくに)と越後国(えちごのくに)を結ぶことから、岩越線(がんえつせん)と言いました。後に磐越西線となる時に、本宮町を起点とする計画があったことから、岩越という言葉を後世に残したいと思い、岩越豆本と名付けたそうです。
大沼 洸氏
昭和5年、本宮町生まれ。4年間の教員生活の後、千葉県白浜で近海捕鯨に従事。後に本宮に戻り、郡山市の鉄工会社に60歳まで勤務。
「平成4年、学徒動員の空襲体験を書いた『ダダダダダ』を出したのが豆本作りの始まり。豆本なら人数は限られるが、全国にマニアがいるので後々まで大事にしてもらえると思った。表紙や挿し絵はマッチ棒で一枚ずつ描き、彩色もする。
第15集の『岩越妓情』の本を収めるケースは一見さりげないが、厚さ25ミリの鉄塊をくりぬいたもの。
第17集の『オキュパイドの黄昏』の仕掛けは、紙の外箱を開けると、鉄製の内箱、その中央に窓が切られ、本物のサンマの缶詰が入っている。豆本はその下にある。文章と深い係わりがある。読んで欲しい……」と語っています。