この二月に函館で講演会があり、その途中、青森県の三戸町に立ち寄り白虎隊の墓を参拝した。以前から三戸町に白虎隊の墓があることは知っていたが、なかなか訪ねる機会がなく、長い間、気になっていた。夏の間は福島と函館の間に飛行機が飛んでいるが、冬の間は運休である。飛行機は札幌経由か羽田経由しかない。それならば列車で行こうとなった。三戸はその中間にあった。
盛岡で新幹線を降り、在来線の特急に乗り、三戸は盛岡から一時間の距離にあった。あらかじめ三戸に移住した会津人の末裔大庭紀元さんに連絡をとっておいたので、大庭さんが駅に出迎えてくれ、墓がある観福寺に案内してくれた。
大庭さんは会津から移住した大庭勇助の四代目になる。曾祖父勇助は会津藩黌日新館の剣術指南役だった。
勇助がこの地にやってきたのは明治三年十月で、六十三人を引率して、陸路、三戸にたどり着いた。三戸は南部藩の発祥の地である。南部藩の出城も残っており、この界わいでは比較的、裕福な方だった。
白虎隊の墓がある観福寺は町の中心部にあった。まだ雪があった。
「住職さんが掃いてくれましてなあ」
大庭さんが言った。
白虎隊の墓はそう大きなものではなかったが、会津人の心がこもっていて、毅然として雪のなかに立っていた。
「曾祖父たちは、飯盛山で自刃した少年たちに、会津人の魂を見たのだと思います。いわば精神的なシンボルとして祭ったのではないでしょうか」
大庭さんはそう言って手を合わせた。墓の隣には『白虎隊墓碑 由来の碑』があり、墓碑の由来が書かれていた。それによると建立は明治四年正月十三日で、建立者の代表は斗南藩士大竹秀蔵とあった。斗南藩は会津藩の再興を目指してつくった新しい名前だった。
当時、白虎隊に関する正確な情報はまだ三戸には伝わっておらず、墓に刻まれている人数は十九人ではなく十七人だった。大正十二年には矢村績が中心となり、『白虎隊を称える檄文』がつくられ三戸の関係者に配られた。
「南に赤穂四十七士の忠臣義士あり、北に会津白虎隊の忠勇無比なるあり」
そこにはそのように書いてあった。移住者の暮らしは実に苦しいものだった。多くの人が餓えで命を落とし、無縁仏となって山野に朽ち果てた。
私はもっとも厳しい生活に追い込まれた下北半島には、これまで数回、取材に訪れた。
冬の厳しさはいまも変わりはなく、恐山から轟々と雪が吹き付けた。柴五郎の『会津人柴五郎の遺書』にあるように、そこは極寒の世界だった。
会津の人々の住まいは農家の片隅の納屋であり、藁にもぐり込んで寝ていた。下北の人々は「流罪」だったと口を揃えて言った。
私はそれ以来、明治政府というものを信用しなくなった。会津藩の青森への移住は明らかに報復のまた報復であり、これでもか、これでもかといじめ抜いたのが、この移住だった。結局、廃藩置県で会津藩の再興は幻と消え、会津の人々は「勝手たるべし」ということになった。
東京に出る人、会津若松に帰る人、北海道に渡る人、地元に残る人とさまざまだった。
「うちでは家族に病人がいて出ることが出来ませんでした」
という人に出会ったことがあった。
「会津の人は酷く貧乏で、ハドザムライ、会津のゲダガと言われました」
という人にも出会った。ハドザムライというのは、豆ばかり食べているからである。
ゲダガとは毛虫のことで、山菜や草ばかり食べているので、ついには毛虫呼ばわりされたのである。
「母が言ったのです。絶対、会津人というな、いじめられるから。だから私は誰にも話たことはありませんでした」
かなり以前だが、そういう女性にも出会った。そうしたとき、会津人の誇りを取り戻してくれたのが白虎隊だったに違いない。私は苔むした小さな墓碑に、いい知れぬ感動と悲しみを覚えた。このことは近々、出版する『白虎隊と会津武士道』(平凡社新書)にも書いた。
星 亮一(ほし りょういち)
1953年仙台市生まれ。東北大学文学部国史学科卒業。
福島民報社記者、福島中央テレビ報道制作局長を経て文筆業へ。戊辰戦争について数多くの作品がある。
東北史学会会員、日本文芸家協会会員、日本ペンクラブ会員。
『奥羽越列藩同盟』(中央公論新社)で第19回福島民報出版文化賞を受賞。
郡山市在住。