ふるさと探訪 其の32 信夫山散歩(一)

 

信夫山は当館のすぐ裏、福島市の中心市街によこたわる、周囲およそ七ほどの山である。三峰からなり、東峰は熊野山(二七五m)注1、中峰は羽黒山(二六四・二m)、西峰は羽山(二六七・六m)と呼ばれ、あわせて信夫三山という。

古く中世のころは、大羽山または青葉山と呼ばれたそうである。伊達政宗が、当地方から仙台の地に築城するとき、伊達氏発祥の信達平野の中央に屹立するこの山を偲び、青葉城と命名したと言い伝えられている。

また、昔から山岳信仰の山として知られており、それぞれの山頂に、信仰の対象である神仏が祀られている。当館の職員駐車場わきの大石にも、秋に一度、注連縄が飾られる。

この山は、阿武隈川とともに福島市の自然を代表し、地域の人たちは御山(おやま)と呼んで親しんでいる。 この【信夫山】という呼称のみえる古い地誌を紹介すると、①『信達風土雑記』日下兼延著 成立元文五年(一七四〇)県立図書館には五種類五冊が所蔵されている。②『信達古語名所記』著者不詳 成立文化十五年(一八一八)、③『信達一統志』志田正徳著 成立天保十二年(一八四一)、④『信達二郡村誌』明治政府による皇国地誌 成立明治十二から十五年(一八七九から一八八二)などである。

読みやすいところでは、西坂茂著『信夫山』がある。初版は昭和十六年(一九四一)で、覆刻版が昭和六十二年にでており、信夫山に関するレファレンスをする際の必読書となっている。その中に〈「しのぶ」の語原〉について書かれている一節があり興味深い。それによると

  1. 『信達一統志』による「篠生」説
  2. 『信達古語名所記』による「忍夫」説
  3. 此山の名産といわれる(『信達一統志』)「忍草」説
  4. アイヌ語説 古地名には先住民族アイヌの命名によるものが多く、西坂氏もこの可能性が高いとする。この音が後の「國名は雅字を以て表す」との元明天皇の勅(和銅六年)により、二字にて信夫と改められたのであろう、と説く。

前出した『信達風土雑記』『信達古語名所記』『信達一統志』などによると、信夫山は古来より歌枕として詠まれている。歌枕の性格上、山そのものの感興を歌ったものではないらしい。「しのぶ」という語のもつ、心情・相思の情を陸奥國の信夫郡にある山として、思いを馳せ表現したものらしい。有名なものを紹介しておく。

  • みちのくのしのぶもぢずり誰ゆえに 乱れむと思ふ我ならなくに 源融 古今集
  • 信夫山忍びてかよふ道もかな 人の心の奥も見るべく 在原 業平 伊勢物語
  • いかにしてしるべなくと尋ね見ん 信夫の山のおくのかよひ路 藤原 俊成 新勅撰
  • 人しれず苦しき者は信夫山 下はふ葛の恨みなりけり 藤原 清輔 新古今

気の遠くなるような大昔、福島盆地のあたりは海だったという。それが、およそ一〇〇〇万年前地殻変動によって奥羽山脈が隆起し、福島の西方に吾妻連峰ができ、盆地一帯も陸化した。そのまた後の地殻変動により、盆地周辺に断層が生じ盆地は陥没した。ところが信夫山周辺は、堅い岩石であったために島のようにのこり、隆起をつづけている奥羽山地や周囲の丘陵から、多量の砂やレキが運び込まれ、盆地は埋められていったという。前出の『信達風土雑記』には「高きに登りて臨眺すれば信夫浦千年の風色目前にあり、凡昔時の湖水漁網の所は今は田野と化し稲の穂波立ちわたる」と書き残されている。

平安の歌人たちにとって、「みちのく」の風物が、底知れぬ不安と期待とが錯綜した一種の憧憬となり、歌枕の意味合いを強めていったのであろうと思われる。ここが海であったという証拠にはなりえないが、『信達二郡村誌』の「信達歌考證附録」には〈信夫浦〉を詠んだものが十二首ほど掲載されている。

昭和四十五年(一九七〇)、国道十三号信夫山トンネルが開通した。それまでは、この山のために福島市北部の開発が遅れたとも言われている。しかしこの御山は、私たちにいろいろな表情をみせて、市民の憩いの場所となっている。

次回は、この御山にまつわる昔話を紹介したいと思う。

注1 国土地理院は平成十三年八月、ホームページで公表している「日本の山岳標高一覧」のうち信夫山など一部の最高地点の標高を訂正した。

 

文中で紹介した以外の参考文献

  • 「信夫山日曜散歩」入道正著
  • 「信夫山めぐり」梅宮茂著
  • 「新福島の歴史は面白い」ややまひろし著
  • 「福島市史」第一・五巻
  • 「半沢光夫の福島発・歴史地図」上巻
  • 「福島大百科事典」福島民報社
  • 「福島県民百科」福島民友新聞社
  • 「歌枕歌ことば」片桐洋一著
  • 「歌ことば歌枕大辞典」角川書店

[地域資料チーム]