ふるさと探訪 其の30 福島のカメラマンたち

 

写真は、19世紀中頃日本に渡来した。その後、日本写真史の草分け的存在とされる横浜の下岡蓮杖と長崎の上野彦馬によって研究改良され、彼らの門下からは、多くの写真家が輩出された。その一人が岩田善平である。

 善平は喜多方出身で、1888年の磐梯山噴火の際、写真家として最初に駆けつけ、死者477名という災害の生々しい状況を後世に伝えた。今度の三宅島の噴火をみるまでもなく、その危険性に計り知れないものがあったことは容易に想像できる。氏の勇気と写真家としての使命感を感じずにはいられない。

この時に撮った14枚の写真は、学術的に貴重であると同時に、大自然の前に人間はいかに無力かを我々に思い知らせてくれる。

しかし何か思うところがあったのか、善平は噴火の写真や自分の見た惨状を他人に語ることはなかった。このことが写真を世に知らしめるまでに百年を要することとなる。

福島の写真家としては、明治初期に福島町で開業した田村鉄三郎が最も早いといわれている。田村の一族は1870年に函館で開業し、北海道での写真家第一号ともいわれている。

中原中也の肖像写真で有名な有賀乕五郎は1890年東村生れ。日露戦争後に当時世界最高のカメラ技術を誇ったドイツに単身留学した。レッテ・フェアラン写真学校でレントゲン(X線)科を中心に撮影法を学んだ。この縁でレントゲン写真で名を残した物理学者のレントゲン博士の肖像写真を撮影している。

 帰国後は、銀座に有賀写真館を開業した。戦後間もなく全国に先駆けてカラー撮影を始め、常陸宮家、三笠宮家など宮内庁関係の撮影も担当している。

帽子を被った中也の肖像写真は、複雑な陰影が施されているために、帽子と髪の毛の区別がつかず、不思議な感じがでている。バックレタッチと呼ばれる技法で、遠近法を無視してバックと顔の境界あたりをぼかすことによって、肖像写真に芸術性を与えている。

ところで本県最初の被写体は、1855年に常磐炭田を発見した四倉の商人・片寄平蔵のちょんまげ姿と、1862年京都守護職時代の会津藩主・松平容保の正装姿といわれている。

さて現代に目を移すと、プロ・アマ問わず多くの福島県出身の写真家が活躍している。小関庄太郎は1907年、福島市に生まれた。「ベス単派」に数えられる小関庄太郎は、福島の写真同好会二葉会に入会し写真を始める。

初期には、二葉会の主催者である佐藤信の影響を受け、風景写真が多い。中期になると、人物写真や都市風景連作にみられる洗練された作画がみられる。1936年は表現の多様さや作画数は際立っており、氏にとっての芸術写真の総決算の年といえる。戦中、戦後にかかる後期には徐々に作画数は減少し、作風もそれまでの「雑巾がけ」による描画から、モダンな風俗に取材した郊外風景を製作するようになる。

時に氏の写真を絵画と見まがうのは「雑巾がけ」といわれる技法のためである。この技法は日本独特のもので、鉛筆などで画面を修正したり、書き起こしたりするもので、大胆に画面を作り替えることもある。

第14回(1995年)土門拳賞を受賞した鈴木清はいわき市出身。炭坑の町で育った氏は、極彩色の炭坑の風景こそが写真の出発点であり、帰結点であるという。受賞作の『修羅の圏』をはじめ、氏の一連の作品にはその要素が色濃く出ている。これまでの出版物のほとんどが自費出版であることにも、氏のこだわりが感じられる。

保原町出身の青柳陽一は、広告写真のパイオニアである杵島隆の下で技術を学んだ後、独立。広告写真家として女性を中心に撮り続けた。中でもアメリカに単身で出かけて撮った「アメリカン・ガールズ」やヨーロッパで撮った「ヨーロピアン・ガールズ」は反響を呼んだ。

瀬戸正人はタイ生れで、父方の故郷である福島育ち。父は旧日本軍人、母はベトナム人という異色の経歴の持ち主で、国際性豊かな写真を撮り続けている。

また、国見町出身の鈴木重男は福島県内の山河を撮り続けている。その他にも福島市出身の丹野清志、相馬市出身の諸星和夫、同じく相馬市出身の後藤輝夫など、紹介しきれないほど多くの写真家が現在活躍している。(敬称略)

(註) 大正時代の中頃、大衆へと写真が普及する立役者となった「ベスト・ポケット・コダック」カメラと呼ばれる、それまでのガラス乾板に代ってフィルムを使用する小型カメラの元祖のようなカメラを使う人々の中から、「ベス単派」と称される一群の写真家たちが生まれた。

参考文献
『百年前の報道カメラマン』『日本人の帽子』『光のノスタルヂア』『カメラマン』
『バンコク、ハノイ』 他