図書館に勤めていた二十代後半、私はアルゼンチン出身のボルヘスという文人に出遭い、その特異な文学宇宙にすっかり魅せられてしまった。詩と批評と物語が渾然一体となった文業の背後には〈バベルの図書館〉がそびえ立っていた。この壮麗にして虚ろなる架空の図書館の一員になるべくモノを書きはじめた男は、気づいてみたら現実の図書館員を辞めてしまっていたのだった。私のモノカキ・デビュー作はボルヘス論である。
ボルヘスの代表的短篇の一つに「バベルの図書館」がある。一方、現実にアルゼンチン国立図書館長をつとめたわがマイスターは、各巻に簡潔にしてブリリアントな序文を付した『バベルの図書館』という名の世界文学選集を編纂している(邦訳は国書刊行会)。
旧約聖書に出てくる伝説上の巨大なバベルの塔は神の怒りを買い未完成に終ったとされているが、バベルの図書館のイメージにも、実現性のない空想的な計画を意味する塔の影がさしているだろう。
途方もなく現実ばなれした出来事として、ボルヘスは視力を奪われたのとほぼ同時期に図書館長に任命された自分の運命について驚きと共にしばしば語り、書いた。神は、もはや肉眼で読みえない者に九十万冊の書物の番人を命ぜられた……と。
永遠をこえて存在する無限の図書館をめぐって極限の描写をみせつける短篇「バベルの図書館」と、長篇より短篇という媒体にこそ無限が宿るとする持論に基づいて編まれた世界の名だたる作家選集『バベルの図書館』全三十巻を、私は長い時間をかけて愛読してきた。名前は同じだが質量ともに異なる二つの間に、自分なりのバベルの図書館を幻視しようとしたといってもいい。
だが、極限の図書館は、闇の国をさまよう詩人・作家・評論家が図書館長に任ぜられたという一事に当方もまた驚き、感動した時、すでにその壮麗にして空虚な姿をあらわしていたのだと思う。
図書館とは魔法にかかった魂をたくさん並べた魔法の部屋である、というエマーソンの言葉を引きながら、ボルヘスはある講演の中でこう語っている。
―私たちが呼べば、魂たちは目を覚まします。ある本を私たちが開かなければ、その本は文字通り、そして幾何学的にも、一冊、数ある中のひとつの物にすぎません。が、私たちがそれを開くとき、本がその読者に出会うとき、初めて美学というものが生じます。……ある本を読むたびに、それを再読するたびに、そしてその再読を想い出すたびに、元のテクストは新しくなるのだ……。
著者であるよりも本の番人であることを誇りにするバベルの図書館の闇には、魔法にかけられた魂を封印するテクストが並んでいる。「再読を想い出す」という表現に込められた盲目の図書館長の魂を私は慎ましやかにおしはかるのである。
室井 光広(むろい みつひろ)
1955年、福島県下郷町生まれ。慶応大学文学部卒業。図書館勤務を経て、小説家、文芸評論家。
「零の力―J・L・ボルヘスをめぐる断章」で「群像」新人文学賞(評論部門)受賞。1994年「おどるでく」で第111回芥川賞受賞。『そして考』『縄文の記憶』『キルケゴールとアンデルセン』などの著作がある。