小林 金次郎(こばやし きんじろう)

 

(1910年10月7日から2002年5月30日)

小林 金次郎

教育者、詩人、郷土史家。福島市置賜町、建築家小林鉄蔵の十人兄弟の八番目として生まれた金次郎は、すでに幼い頃から詩や作文が得意でいろいろな文集などに掲載されていたという。昭和4年、福島師範学校(現福島大学)に入学したころから、児童雑誌『赤い鳥』や『金の星』へ本格的に作品を投稿、なかでも北原白秋が創刊号から童謡の選者となっていた『赤い鳥』での入選を機に、白秋に師事。昭和8年、北原白秋の企画した『日本伝承童謡集成』の「福島県のわらべうた」の編集にたずさわる。福島師範学校卒業後は、福島市第二小学校、信夫郡大森小学校、福島大学附属中学校で教鞭を執るかたわら、詩や童謡の創作活動を続け、子ども向け絵雑誌『コドモノクニ』や童謡同人誌『チチノキ』などの同人としても活躍した。昭和24年11月には、同じく教育者である兄・金太郎や、佐藤久子、関根英雄らとともに、児童文学者協会福島支部を結成、翌年メルヘン童話・童謡などの作品を掲載した『芽生え』を発行した。相馬郡臼石小学校、福島市大波小学校の校長を務めたのち退職、現役教員生活を退いた後は、県立保育専門学院講師などを務めるなかで、『福島県伝承童謡集成・ふくしまのわらべ歌』(西沢書店,1972年)、『安寿姫と厨子王』(教育センター,1976年)などを出版、郷土の昔話・わらべ歌・民謡などの編纂に尽力した。

古い戸

 

北原白秋との出会い

金次郎作の上の童謡「古い戸」は昭和7年11月号の『赤い鳥』に掲載され特選に選ばれた。北原白秋は、この作品を以下のように評している。「小林君の『古い戸』には近代の細やかな神経が光っている。鋭いくらいである。倉の戸のきしりを鵯や鶫のこえにしたところも暗示的である。古風な倉の戸前の春も白い梨の花によって柔らかに明るくされてその空気の中にキヨキヨと戸の錆びた車がきしむのである。」金次郎は自著『北原白秋と福島』(蘭緊之,1987年)の中で「この先生の言葉が、私の作詩活動に与えた影響は実に大きかった。私にとってこの言葉は私の生涯に決定的なものを与えて下さったと言える」と述べている。昭和8年11月、福島県教育会館の新設披露の際に、憧れの北原白秋を福島に迎え、児童文学・童謡・少年詩などについて講演会を開催する機会に恵まれた。結局、金次郎の白秋との対面はこれが最初で最後であったが、全国的に有名な北原白秋に自作の詩を賞賛され、また、前出『日本伝承童謡集成』で親しく編集の手伝いが出来たこと、また自分の生まれた福島の地に白秋を招くことができたことは、金次郎にとって至上の喜びであったろう。昭和43年7月には白秋の流れを汲む詩誌『からまつ』創刊号を出版するが、この誌名も白秋の詩集『落葉松』にちなんでつけられたのは言うまでもない。白秋が目指した「美への激しい試みと人間の愛へ向けた鋭い感受性」を福島の地で受け継ぐ『からまつ』は、平成10年1月の141号で主宰者である金次郎の健康上の理由で終刊を迎えるまで、実に三十年以上も続いた同人誌であった。

 

校歌に込められた郷土愛

金次郎は、県内を中心に小・中学校の校歌や応援歌、また職場の歌などの作詞を100曲以上も手がけたことでも知られている。この点では北原白秋の「学校ぎらい唱歌ぎらい」であったとされる精神とは距離を置くもののように感じる。前出『からまつ』平成4年7月の120号の巻頭言で金次郎は次のように述べている。「・・・母が死ぬ直前、私を枕元に呼んでこう言った。「金次郎よ、人間は一度死んだらおしまいだ、だからその生きている中に、自分の生まれた土地に何らかのご恩返しをしなさい」と。」また、『小林金次郎先生の著作を祝い励ますつどい』(小林金次郎先生の著作を祝い励ます会,1972年)の「教え子に教えられるもの」のなかでも「所詮、福島っ子は福島に住みついて、中央文壇に出るなどの野望を抱いても仕方がないことだが」と述べているあたり、中央文壇への野望はありつつも、母の遺言も手伝ってやはり愛する福島の人々や子どもたちに貢献していきたいという教育者としての思いが一番強かったと感じる。平成元年に勲五等双光旭日章を授章。「コバキンさん」の愛称で教育界・文学界などさまざまな方面で親しまれた金次郎だが、平成14年5月30日、急性心不全のため死去。91歳であった。

 

参考文献

  • 『日本児童文学大事典』(大日本図書,1993年)他

〈児童図書研究室 加藤麻依子〉