大正7年(1918)に鈴木三重吉主宰で童話雑誌『赤い鳥』が創刊された。この雑誌は、この年小学校3年生になった裕而に大きな影響を与えた。担任であり唱歌とつづり方の担当でもあった遠藤喜美治先生は、子どもたちに童謡を作らせるほど熱心な先生だった。そのため、音楽に限らず創作活動が盛んに行われていた。
裕而による児童文学は世に出版という形では生まれていない。しかし、福島商業高等学校在学中の大正13年に創刊された生徒会誌の「学而」に創作物語を掲載したとされている。齋藤秀隆氏著の伝記『古関裕而物語』によると、題名は昔話「五色沼」という作品である。
信夫野の里に住む長者夫婦には長年子供がなかった。そこで夫婦は氏神様に祈り、望んで生まれてきた男の子に「小金丸」と名をつける。小金丸は、元気に賢く育ち15歳になった。働き者で、近隣に知らない者のいないほど名を広めた小金丸だが、次第にその元気をなくしていった。
もう助かる見込みがないほどやせ衰えた小金丸が、最後の望みとして長者夫婦に告げたのは「吾妻山に登り沼を見たい」というものだった。人々の助けを借り、願いどおり沼に着いた小金丸はその中に身を投じた。すると沼の中から金龍が現れ、「自分は神の使者としてこの世に使わされた。今もとの体にもどり、天に帰るまでこの沼に住む。日照りの時には沼に石を投げると雨を降らす。」と告げ沼に帰っていく。
その後、この沼は毎日、赤・青・緑・黄・紫の五色に色を変え「五色沼」と呼ばれるようになった。