山村 暮鳥(やまむら ぼちょう)

 

(1884年1月10日から1924年12月8日)

1884年(明治17)年1月10日、群馬県西群馬郡棟高村(現群馬町)に農家の長男として生まれる。本名は土田八九十(明治22年4月18日以降は小暮八九十)。

詩人、宗教家。1899(明治32)年、堤ヶ岡尋常小学校の代用教員を勤め、1901(明治34)年前橋聖マッテア協会の英語夜学校に学ぶ。1902(明治35)年、キリスト教の洗礼を受ける。

1908(明治41)年、聖三一神学校卒業後、日本聖公会の伝道師として各地で伝導活動をした。神学校在学中に小暮流星の筆名で雑誌「白百合」に短歌を投稿。以後、「早稲田文学」「文章世界」「創造」「新潮」等に作品を発表する。

1912(明治45,7月改元して大正元)年9月から1918(大正7)年1月にかけて福島県石城郡平町(現いわき市平)の日本聖公会平講義所の伝道師となる。その間、1913(大正2)年6月に結婚。同年、処女詩集『三人の處女』(新声社)を出版。その序文で島崎藤村は「新しい香気と、淡い柔らかな呼吸とに満ちた詩集だ」と評している。1915(大正4)年発行された詩集『聖三稜玻璃』(人魚詩社)では、それまでの日本の伝統詩にはない独創特異な形式を用い、近代詩の変革に画期的な役割を果した。1917(大正6)年、巻頭に「半面自伝」を載せた随筆集『小さな穀倉より』(白日社・感情詩社)を出版。

1918(大正7)年、人道主義的な作風に転じた詩集『風は草木にささやいた』(白日社)を刊行。この転換期に、磐城の詩人三野混沌の影響があることを草野心平は指摘している。磐城の風土と交友が、全盛期の暮鳥に与えた影響は大きい。

1924(大正13)年、茨城県大洗町で結核により永眠。翌年、詩集『雲』が出版された。いわき市文化センターには暮鳥「雲」の詩碑がある。

おうい雲よ

ゆうゆうと

馬鹿にのんきさうぢゃないか

どこまでゆくんだ

ずつと磐城平の方までゆくんか

 

暮鳥の童話と童謡

1919(大正8)年、結核に倒れ伝道師を休職、このころから童謡・童話の創作に力を注ぎはじめた。同年4月に創刊された児童雑誌「おとぎの世界」童謡欄の選者をつとめる。同誌をはじめとする「少年倶楽部」「金の船」「日曜世界」「少女界」等に童謡・童話を発表した。

暮鳥は「どんな暗黒な時代でも子どもはその未来の希望として光明である。その子ども達に情味豊かなそして健全な童話をあたへたい」(「童話のこと」『文化運動』第112号)と言い、「人間を正しく表現すること-それが童話に就ての自分の理想だ」(「童話に就て」『おとぎの世界』第2年第8号)と 述べている。1920(大正9)年に出版された最初の童話集『ちるちるみちる』 の自序には、大部分が長女玲子の寝しなに語ったお話であることが記されている。

1922(大正11)年から、1923(大正12)年にかけて、童謡童話集『万物の世界』(真珠書房)、『お菓子の城』(文星閣)童話集『鉄の靴』(内外出版社)等を次々と出版。内容は、暮鳥自身「キリスト的」と書いているように、キリスト教精神に拠るものが多い。

童謡について暮鳥は、「そのまゝ詩でなければならない」とし、「どうせ相手が子ども達だからと言ふな。子どもだから寧ろ一層気をつけてやらねばならないのだ」(「童謡に就て」『おとぎの世界』第2年第6号)と書いているように、彼自身、真摯な姿勢で童謡の詩作に取り組んだ。

没後出版された童話に『地獄の門』(イデア書院)、童謡詩『よしきり』(イデア書院)がある。

 

参考文献

  • 『山村暮鳥と磐城平』佐藤久弥 著 鏃出版 1992
  • 『山村暮鳥全集 1-4』筑摩書房 1989-90 他

〈児童図書研究室:鈴木史穂〉