(1902年2月16日から1977年8月3日)
生誕百年を迎える真船豊。劇作家・小説家として著名であるが、彼の数少ない児童・青少年向けの作品に焦点を当ててみる。
明治35年、福島県安積郡福良村(現在の郡山市湖南町)に、地元の有力者である父・禎吉と母・いとの次男として生れる。13歳で北海道に養子に出されるが、小僧同様の扱いを受け、家に戻る。その後早稲田実業に入学、芝居に出会う。早大英文科に進むが、自分を一から叩き直すため、学業を放棄し北海道の牧場で働く。
早大在学中に創作した「水泥棒」(T15)「寒鴨」(S2)は、雑誌『早稲田文学』などに発表された後、青少年演劇向けの『脚本シリーズ第1輯』(かに書房 S21.11)に収録された。どちらの作品も貧しい農村生活の中でひたむきに自分の道を生きようとする人々の、生きていくためには避けられなかった諍いや葛藤が描かれている。人間観察から生まれた初期の作品である。
昭和9年6月『劇文学』に「鼬」が掲載され9月に創作座で上演、各方面から賞賛され、劇作家としての地位を確固たるものとする。その後も、病妻と幼児を抱えた苦しい生活の中で、「鼠落し」「鉈」などを創作する。
終戦を中国で迎え日本に引揚げて、北鎌倉の円覚寺帰源院に起居していた昭和23年に、児童向け寓話劇『ねむりねこ』を発表、小山書店から「梟文庫」の7として出版されている。
『ねむりねこ』は、ある山のお寺の欄間に据えられたねむりねこが、長い眠りから覚め、「ねこはねこらしく」自分の力で生きていこうと決心し戦後の街をさまようが、数々の失敗を重ねた末、諦め、また眠りにつくという喜劇である。このように、戦後は、「人間諷刺」が喜劇の形をとって表現されていった。
この頃、真船は古美術に熱中していた。敗戦後の人心荒廃の現実から逃避し、過去の遺産である「古美術」の中に、人間の魂を見出していた時期であった。『ねむりねこ』の中でも、骨董品屋にある室町時代の古鉄のふくろうがこう言う。
「ものごとをしっかりと考え深く、慎ましやかに、自分を尊敬し、大切にしましょう」
「そして日本人の魂が生み出したこの美術品の証こを大いに誇りましょう」
また、ねむりねこが長い眠りにつくとき
「しょせん、人間は、美しいものがこの世界にないと、とうてい、生きて行けぬものさ・・・こんなに今の世の中が乱れて、ごたつくのも、そう大して長いことではないさ」
とつぶやく。
この作品について「私には珍しい「寓話劇」が生れて來た。私は思ふ存分に、ここで終戰後の、日本人の心を、歌ひ上げた」(『孤獨の徒歩』新制社S33.3)と述べている。
翌24年、長篇童話戯曲「笑ふお面」を雑誌『銀河 4巻1号』(新潮社 s24.1)に発表。この2作はラジオで音楽劇的に放送し、好評だったという。「笑ふお面」はその後、『少年少女劇名作選日本編』(新潮社 S24.10)に収録される。ある山の中の湖水の近くにある炭焼き小屋が舞台となっている。両親が湖水を渡って炭出しに出かけたが、春先で緩くなっていた氷が割れ、亡くなる。その知らせを聞いた玉太郎・龍吉・花子の兄弟が、その夜の夢の中で、氷の精や山の神などに出会い、人間の生き方や考え方について諭される、という話である。
この作品について「私はここでも、敗戰日本の、しかし、人間の眞實を失はないやうにといふ願ひを、少年の心を通して歌ひ上げたのだつた。」(『孤獨の徒歩』前出)と回想している。真船の生れた湖南町は、猪苗代湖に面した農村地帯である。この故郷の情景がさまざまな作品の舞台となって登場する。晩年も「真船豊書斎劇場」を主宰するなど情熱は衰えることはなかった。人間観察を基にした心理描写により社会の矛盾を追求した、数々の真船戯曲を遺し、昭和52年75歳で亡くなる。
〈振興課:佐藤加与子〉