(1883年1月19日から1950年5月19日)
小説家・劇作家、翻訳家。
福島県郡山市に生まれる。金透小学校を卒業後安積中学校(現安積高)に入学、東京海城中学校に転校し、早稲田大学英文学科を卒業する。新聞記者を経て文筆活動に入る。大正11年に欧米に遊学し、そこで出会ったハンガリーの作家フェレンツ=モルナールの紹介に半生を傾けた。
代表作には、長編小説『山荘の人々』(T11)や短篇小説集『紙屋橋』(S23)など、翻訳作品としてはモルナールの『リリオム』がある。
翻訳作品の一つに、カレル・チャペックの『R.U.R.』という作品がある。この中で、チャペックの造語である「人造人間」を意味する言葉の「robot(チェコ語で賦役を意味するrobotaからaをとったもの)」を「ロボット」として日本に紹介したのが善太郎である。戦争のため疎開した故郷 郡山に住み、郷土の文化振興に力を注いだ。
善太郎が童話を書き出したのは、大正期に入り35歳の頃からである。雑誌への掲載は大正7年『赤い鳥』「お猿の剣術」(T7.9)が最初であろう。その後、大正13年までの間に『金の船』『金の星』『少年倶楽部』などの児童雑誌に作品を発表している。歴史から題材を取ったもの、グリム童話の翻訳もの、創作童話などバラエティーに富んでいる。
『少年倶楽部』(大日本雄弁会講談社)の「狂へる祖父」(T7.11)は、仙台市内に住む6歳の男の子が、おぢいさんに連れられ、あわや人買いに売られそうになるという奇妙な旅の果てに、福島で保護される話で、私小説風である。
これらの雑誌などに掲載していたものも含めて童話集『迷ひ子の家鴨(あひる)』(文泉堂)が大正9年に出版された。身近に本当にありそうなお話や、独特の空想の世界を描いた短篇などが収められているが、結末は必ずしもハッピーエンドにはなっていない。子供向けの作品にも、善太郎の「社会を見る目」が反映されている。
また、大正10年には長編少女小説『たんぽゝの家』(創文社、後に松陽社 S2)が発行された。両親を亡くした少女が、おばさんの家に引き取られ明るく健気に過ごすうち、閉ざされていたおばさんの心までも開いていくという話である。
児童劇の脚本としては「赤い家」(T13.1)や「旗日」(T13.7)を『金の星』に載せている。「旗日」は『迷ひ子の家鴨』に「小さいお父さん」として発表した作品を脚本化したものである。内容は、姉弟の留守番中におきたユーモラスな話である。
翻訳作品では、モルナールの「外套」が『少年少女のための世界文学宝玉集 下』に収められている。邦訳で4ページの短いものだが、味わい深い作品である。貧しく若い新聞記者のプライドが、新調した外套への愛着をとおして描かれている。「われらが子供たちに残し得る唯一の遺産は、正しい名誉である」という善太郎の信念が反映される作品といえる。
日本の児童文学にとって大正期は、明治期のお伽噺時代からの変革期であった。善太郎もまた、『迷ひ子の家鴨』のはしがきでこう述べている。
「この本の中に収めてある十五篇の小さな話は、お伽話ではありません。又少年小説、 少女小説といふ種類のものでもありません。そのどちらにも当てはまらない程自由な形式で新時代の坊ちゃん、嬢ちゃん方の為めに、わたくしはこの小さな話を書きました。」