Ⅲ.県立図書館「朝河貫一資料」について
1.なぜ書簡(手紙のこと)が残っているの?
朝河が受け取った書簡や送った書簡がこれほど多く残っているのには、朝河の「記録魔」たる性格が影響しているようです。
届いた書簡には受け取った日付がメモされていたり、その内容が自分の日記に記されていたりしています。さらに送る書簡は手書きかタイプにより下書きし、見直しをした上で清書していたので、これらのコピーが手元に残っていました。また日記にもその内容が書き写されています。
朝河はその生涯を終えるまで、これらの書簡や下書き、さらには日記などを大切に保存していました。
2.遺品が日本へ
朝河が亡くなった後、イェール大学は定年のときに寄贈された残りの蔵書と英文の書簡・草稿類を除いた遺産や遺品、日本語で書かれた書簡類の正当な後継者を求め、アメリカ・ニューヘイブンの遺産相続裁判所に調査を依頼しました。
調査により日本に朝河の親せきに当たる方たちがいることが分かり、1949(昭和24)年5月、福島県伊達市月館に住んでいた甥の斎藤金太郎氏に連絡がありました。
1953(昭和28)年に遺品が届くと、その中には坪内逍遥・徳富蘇峰・渋沢栄一など、明治大正昭和に渡る著名人からの書簡など貴重な資料が含まれていました。
その後、1953(昭和28)年9月に東京日本橋の三越本店で開催された福島県観光物産展の場で「朝河博士顕彰遺品展」が開かれ、福島県が生んだ世界的偉人として紹介し、関係文献を含め遺品が公開されました。
3.どうして福島県立図書館に?
アメリカから贈られた遺品の所有者である斎藤信夫氏(金太郎氏の息子)や東京大学名誉教授を勤め朝河の生涯を描いた『最後の「日本人」』の著者である阿部善雄氏らの研究者の間で、これらの貴重な資料を公的な機関で保存・保管するよう検討されていましたが、1981(昭和56)年になり、福島県に打診があり当館が受け入れ先となる方向で話し合いが始まりました。
1984(昭和59)年3月 正式に寄贈の手続きが終わり、現在の森合の地に移転する当館の新館落成記念の目玉として7月22日から1ケ月に渡り「朝河貫一博士展-福島と二つの祖国-」を開催し「朝河貫一資料」としてお披露目を行うことになりました。
コレクションは、大きく4つに分けられます。
- 斎藤家伝来の朝河貫一関連資料
- イェール大学より遺品として贈られた和文書簡
- 阿部善雄氏を通じて追加された英文書簡
- 当館で斎藤家以外の遺族により寄贈を受けた和文書簡
当館では、その後コレクションの整理に着手し、1992(平成4)年に目録を作成しました。さらに、イェール大学で所有する資料をまとめた『Kan'ichiAsakawa Papers(マイクロフィルム版)』を購入、1996(平成8)年には書簡類をCD-ROMに収めるなどコレクションの活用と保存をしてきました。
4.書簡をやり取りした人々は?
朝河と書簡を交わした人々は、大きく6つのグループに分けられます。
(1)父母・親族や少年時代からの友人たち
両親や親族とのやり取りに加え、安積中学校からの友人・高橋春吉氏らの書簡があります。
(2)恩師や学友・同僚たち
東京専門学校の恩師坪内逍遥やダートマス大学学長のタッカー氏、G・G・クラーク、詩人で女優のグレッチェン・ウォレン、教師としての同僚たちです。
(3)研究者たち
アメリカのウォーナー、イギリスのサムソン、フランスのブロック、ドイツのヒンツェなど専門家や研究者たちに留まらず、徳富蘇峰や東京大学の辻善之助など日本の歴史家たちとの交流は著書や論文の大きな背景となっています。
(4)日本の政治家・外交官・教育者たち
大隈重信や鳩山一郎などの政治家や外交家たちには、日本は国際的な立場を考えて動いてほしいという自分の考えを伝え、お互いに情報を交換したり日本の資料を集めて送ってもらったりしていました。
(5)交際をしていた女性たち
ダイアナ・ワッツやクリスチャンのベラ・アーウィン、マリオン・V、グレッチェン・ウォレンなど、彼女たちに宛てたものには、信仰や愛、友情や学問について語っていることが多く、朝河の心情や人間性を知ることができます。
(6)その他
国際補助語運動家アリス・V・モリスとのやり取りや、出版社との交渉など様々な相手との書簡があります。
(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)
※ⅠからⅢ 主要参考文献
『朝河貫一書簡集』(朝河貫一書簡編集委員会/編,朝河貫一書簡集刊行会,1990)